伊豆の国

韮山反射炉〜世界文化遺産〜

にらやまはんしゃろ
電話/055-948-1425(伊豆の国市役所世界遺産課)
料金/大人300円 小・中学生50円
営業/9:00~16:30
定休日/無休 年末年始のみ休業
住所/静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268
駐車場/100台以上
アクセス/伊豆箱根鉄道伊豆長岡駅から徒歩約25分

世界文化遺産登録された唯一の反射炉

幕末、欧米諸国の植民地化や開国要請に対抗して、日本を守るために韮山代官江川太郎左衛門が幕府に進言して築いた大砲鋳造炉です。世界唯一の産業遺産として、平成27年7月に、韮山反射炉を含む「明治日本の産業革命遺産 」の構成資産として、世界文化遺産登録されました。他にも、萩の「松下村塾」、長崎の「旧グラバー邸」、北九州の「官営八幡製鐵所」など23のグループで構成されています。世界文化遺産登録を記念して新しく「韮山反射炉ガイダンスセンター」が併設され、これまで以上に反射炉の魅力がわかりやすく学べる施設となりました。

 

 

なぜ韮山に反射炉ができたのか?

反射炉とは金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉のこと。内部の天井がドーム状になった炉体部と煉瓦積みの高い煙突で構成されています。石炭などを燃料として発生させた炎と熱を炉内の天井で反射し、集中させることによって、鉄を溶かします。その時の温度は千数百度。このような炎と熱を反射する仕組みから「反射炉」と呼ばれました。反射炉は、当初伊豆下田港に近い本郷村(現下田市高馬)に造られる予定で、実際に基礎工事なども行われていました。しかし、安政元年(1854)3月、工事中の反射炉敷地内に下田に入港していた米国ペリー艦隊の水兵が侵入する事件が起きたため、急遽韮山の地に建設地を変更することになりました。下田での反射炉築造のために用意されていた煉瓦や石材は韮山に運ばれ、改めて利用されました。ちなみに、千数百度という高温に耐える良質な耐火煉瓦は、賀茂郡梨本村(現河津町)に設けられた登り窯で生産されました。韮山での反射炉築造は順調に進まず、責任者であった江川英龍(ひでたつ)はその完成を見ることなく安政2年(1855年)にこの世を去りました。跡を継いだ息子の英敏が築造を進め、安政4年(1857)に連双2基4炉からなる韮山反射炉を完成させました。

 

 

ガイダンスセンターで反射炉について知ろう

反射炉見学にはガイダンスセンターを通ります。こちらではパネル展示のほか、モニター上映により、わかりやすく反射炉について知ることができます。まず、こちらで反射炉を知った上で現物を見ると臨場感が湧きます。

 

 

いざ、反射炉を見学

空に向かって伸びる4つの特徴的な炉が見えます。炉体は伊豆石積み、煙突は煉瓦積みで、高さは約16mあります。鉄枠は補強用に付け加えたもので、建造当時はもちろん、この枠はありませんでした。園内には品川台場用として幕府から注文のあった各種大砲のうち、江川家家臣の家に残る図面から復元したものを展示しています。鋳鉄製で、重さは約2トンあります(24ポンドカノン砲)。

 

 

歩いてすぐの高台から富士山が見える

反射炉から徒歩数十mの高台からは晴れた日に富士山が見えます。周囲をお茶畑に囲まれ、静岡らしい風景です。反射炉へお越しの際には寄ってみてください。また、反射炉に隣接された反射炉物産館では「反射炉ビール」という名のビールなど反射炉をテーマとしたお土産も各種販売中です。

 

 

反射炉築造に指揮した江川英龍と江川邸

韮山反射炉の生みの親、江川太郎左衛門英龍(担庵)は地元では今でも親しみを込めて「たんなんさん」と呼ばれています。英龍は、享和元年(1801)、幕府の韮山代官を世襲する江川家に生まれ、文政7年(1824)から、父・英毅の下で代官見習いを務めて経験を積み、天保6年(1835)に江川家第36代当主となるとともに、韮山代官に就任しました。韮山代官は、伊豆・駿河・相模・甲斐・武蔵にある幕府直轄地の支配を担当する行政官で重要なポストでした。そんな江川家の邸宅は今でも現存し、韮山反射炉から約3kmのところにあり、「江川邸」として見学(有料)ができます。こちらでは韮山反射炉についても詳しく展示されています(写真の担庵自画像や反射炉模型、古写真は江川邸内のもの)。 

 

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